温かいものに触れたいとヒラリと手を動かす。
バタバタと床をさ迷わせてから、有夏は上体を起こした。
「ヤバ。痛て……」
そのまま床で寝てしまったようだった。
感覚では僅か数分ほどに感じたのだが、夜の静けさはもう深夜のそれである。
数時間ほど寝てしまったのか。
どうりで背中が痛いはずだと腰をさすっている時である。
ドスドスドス。
荒い足音が近付いてくる。
有夏は顔をしかめた。
隣に住む女が酔っぱらって帰ってきたに違いないとでも思ったか。
「あのクソビッチ、たまに1人ですごい叫んでんだよな。キモいわ」
吐き捨てた瞬間、その足音がクソビッチのものでないと悟る。
ガチャガチャと鍵を開ける音がやけに近い。
この部屋だと気付いたのだ。
「ありかぁーーー!!!」
隣りのクソビッチの叫びなんてものじゃない。
玄関での絶叫は静かな夜を破壊した。
「有夏、玄関はちゃんとチェーンしとくようにって言ったでしょ。危ないから! 何で電気もつけてないの!? 窓が真っ暗だったからびっくりしたよ! ああ、窓も開けっぱなしで。2階とはいえ閉めなきゃ! 物騒なんだから。変質者が侵入してきたらどうするの!」
「あぅ……」
窓辺で固まってしまった有夏の所へ駆け寄ってきたのは長身の眼鏡──幾ヶ瀬である。
戻ってくるのは明日の筈ではと口にしようと、しかし驚きのあまり舌が回らない様子。
パクパクと息を吸うばかりで、窓辺に座り込んだままだ。
ちらりと座卓の上に視線が泳ぐ。
マズイ、と表情が歪んだ。
カップ麺は片づけてないし、お菓子も散乱したままだ。
見付ければ幾ヶ瀬が発狂して面倒臭いことになるのは目に見えている。
「無事で良かった! 有夏に何かあったんじゃないかと思うと、いてもたってもいられなくて」
「無事って何の話だよ?」
無事に決まってる──そう言いかけて、彼は顔を引きつらせた。
何かを忘れていたと思った。
──連絡入れるから電話でてよ。もし無理ならメッセだけでも返してよ。
夕べしつこく言われた言葉を思い出したのだ。
離れていると心配だからと、それはもうクドクドと。
「昼間はまぁ……有夏め、怠けてるなと思ったけど、夜になっても1回も返信がないから心配になって。具合が悪くなって倒れてるんじゃないかとか、暴漢に襲われてたらどうしようとか。俺の心配が現実になってたら大変だって」
電車がないのでタクシーで帰ってきたと言う。
「タクって……幾らかかって……」
金に汚い幾ヶ瀬に、これは悪いことをしたと有夏もうなだれて反省した様子。
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